Mag-log in月曜日の朝、教室へ入った私は、自分の席へ向かう途中で思わず足を止めた。
篠宮君が、私の机の横に立っていた。
ただ立っているだけなら別に珍しくないのだけれど、その手には見覚えのあるクリーム色の紙袋が提げられていて、袋の中央には小さな太陽を描いた『パティスリー・ソレイユ』のシールが貼られている。
「……何してるの?」
声をかけると、篠宮君は振り返り、何を聞かれているのかわからないような顔をした。
「待っていた」
「それは見ればわかるけど、その袋」
「昨日も店へ行った」
「昨日って日曜日だよ?」
「ああ」
「来たの?」
「行った」
「私、昨日休みだったんだけど」
母から何も聞いていない。
いや、あの母なら絶対に言うはずだ。
『篠宮君、今日も来たわよ』どころか、『あなたがいないのに来るなんて、これはもう店目当てか娘目当てかわからないわねえ』くらいは確実に言う。
「でも、お母さん何も――」
そこまで言ったところで、篠宮君が少しだけ気まずそうに視線を逸らした。
「開店前だった」
「は?」
「朝早く着きすぎた」
「何時に?」
「七時二十分」
「開店十時!」
思わず教室中に聞こえそうな声を出してしまい、すでに登校していた何人かがこちらを見た。
私は慌てて声を落としながら、彼の腕を引いて自分の席の横まで寄せる。
「なんで朝七時二十分にケーキ屋へ行くのよ。うち、お母さんだってまだ仕込みしてる時間だからね?」
「学校へ行く時と同じくらいに家を出た」
「日曜日でしょう!」
「休日でも起床時間は変わらない」
「そこじゃなくて!」
私が頭を抱えると、篠宮君は少し考えてから言い直した。
「昨日、焼き菓子を買うと言ったから」
「……誰に?」
「家の者に」
「私には言ってないよね?」
「言っていなかったか?」
「聞いてないよ!」
「そうか」
悪びれた様子もない。
本当に行くつもりだったらしい。
「それで、開店するまで二時間四十分待ったの?」
「いや、一度帰った」
「帰ったんだ」
「開店時間を聞いてから、十時にもう一度行った」
「二回来たの!?」
もう何が正解なのかわからない。
本人はいたって真面目なのだから余計に困る。
「篠宮君、そんなにうちのお菓子気に入ったの?」
聞いてから、少しだけ恥ずかしくなった。
自分の家の店を褒めてもらいたいみたいで、妙に期待しているような言い方になってしまった気がしたからだ。
けれど篠宮君は少しもからかわず、紙袋を見ながら頷いた。
「ショートケーキもガトーショコラも美味しかった。フィナンシェも」
「そっか」
「特にガトーショコラ」
「あ、それ私が好きって言ったから?」
言った瞬間、彼が止まった。
本当に、わかりやすい。
「……味としてだ」
「はいはい」
「何だ、その言い方は」
「別に?」
「高梨のお母さんと同じ言い方をするな」
思わず吹き出した。
もう覚えたらしい。
「で、それは?」
私が紙袋を指すと、彼はようやく本題を思い出したように差し出してきた。
「高梨に」
「私?」
「ああ。昨日買ったマドレーヌ」
「なんで私に?」
「世話になっているから」
「また借りを返す話?」
「……そういうわけではない」
「じゃあ、何?」
篠宮君は答えない。
いや、答えられないらしい。
黒縁眼鏡の奥で目が少し泳いだあと、
「一人で食べるより、誰かと食べたほうがいいと思った」
と言った。
なんだ、それ。
私は紙袋を受け取りながら、なぜか自分の頬が少し熱くなった気がして、慌てて中身を確認するふりをした。
「でも、これうちの商品だよ。私、家にいくらでもあるけど」
「……そうなのか?」
その顔。
あまりにわかりやすく落ち込むので、私は慌てて付け足した。
「でも、自分ちのお菓子を学校でわざわざ食べることはないから、ありがたくもらう。ありがとう」
すると、それだけで少し機嫌が戻った。
犬みたいだ。
大型犬。
見た目はまったく可愛くない、無愛想な大型犬。
「篠宮君ってさ」
「何だ?」
「意外と単純だよね」
「高梨には言われたくない」
「またそれ?」
そんなやり取りをしていると、後ろから美咲が近づいてきて、私の手にある紙袋を見るなり目を細めた。
「……朝から何を渡されてるの?」
「お菓子」
「誰から?」
「見ればわかるでしょう」
「見ればわかるから聞いてるの」
美咲が篠宮君を見る。
篠宮君も美咲を見る。
その間に、何とも言えない沈黙が落ちた。
「篠宮君」
「何だ?」
「女子に朝からお菓子渡す意味、わかってる?」
「昨日、高梨の店で買った」
「そういう仕入れ先の話じゃないんだけど」
「美咲、やめてよ」
「だって面白いじゃん。転校三日目で店に行って、四日目にはまた買いに行って、週明けに本人へ持ってくるって、客としてかなりの速度で常連になってるよ?」
「甘いものが好きなんだって」
「へえ」
美咲の「へえ」が長い。
絶対に面倒な方向へ持っていくつもりだ。
「何、その顔」
「別にぃ?」
「お母さんと同じだ」
篠宮君がぼそっと言ったので、私は耐えられず笑ってしまった。
そんな騒ぎがあったせいで、その日は朝から少しだけ浮ついた気分だった。
だから昼休み、自分でも思っていなかった面倒な出来事が起きた時、最初は何が問題なのかまったく理解していなかった。
「高梨」
呼ばれて振り返ると、教室の後ろのドアに相沢悠真が立っていた。
相沢君は同じクラスの男子で、サッカー部のレギュラー、背も高くて人当たりもよく、男女どちらからも人気がある。
篠宮君とは違う意味で目立つ人だ。
篠宮君が「こちらから近づかなければ話さない人」なら、相沢君は「気づいたら誰とでも話している人」で、クラス替えからまだ一か月も経っていないのに、すでにほとんど全員と打ち解けていた。
「何?」
「これ、昨日のお礼」
そう言って差し出されたのは、紙パックのいちごミルクだった。
「あ、別にいいのに」
「駄目。姉ちゃんに『女の子に借りっぱなしにする男は最低』って言われた」
「何を借りたんだっけ?」
「英語のノート!」
「ああ!」
忘れていた。
金曜日、部活で早退するからと言われ、相沢君に五時間目のノートを貸したのだった。
「お前、自分で貸したくせに忘れんなよ。俺、昨日コンビニで結構悩んだんだぞ。高梨って何飲むんだろうって」
「なんでも飲むよ」
「そういう人が一番困るんだって。コーヒーかと思ったけど苦いの嫌いそうだし、炭酸は授業中きついし、最終的に『女子はいちごミルクだろ』っていう最悪に雑な結論になった」
「ひどい偏見」
「外した?」
「好きだけど」
「ほら、俺天才」
「たまたまでしょ」
私が笑いながら受け取ると、相沢君も満足そうに笑った。
ただ、それだけのやり取りだった。
本当に、それだけ。
だから自分の席へ戻って紙パックにストローを刺し、隣を見るまで、篠宮君の機嫌が明らかに悪くなっていることにも気づかなかった。
「……どうしたの?」
「何が?」
「なんか怖い顔してる」
「していない」
「してるよ」
「いつもと同じだ」
「私、もう篠宮君の『いつも』わかるようになってきたから、その言い訳通用しないよ」
言うと、彼は一瞬こちらを見てから、目線を私の机へ落とした。
正確には、いちごミルクへ。
「それ、美味しいのか?」
「うん、普通に」
「俺が今朝渡したものは?」
「マドレーヌ? まだ食べてないよ。お昼のあと食べようと思ってる」
「そうか」
また黙る。
わからない。
いや、何となくわかるような気もするけれど、まさかと思う。
「篠宮君」
「何だ?」
「もしかして、相沢君のこと嫌い?」
「特に好きではない」
「その答え、大人が嫌いな相手について『別に嫌いではありません』って言う時みたいなんだけど」
「よくわからない」
「何かされたの?」
「されていない」
「じゃあなんで?」
少し間があった。
「距離が近い」
「誰との?」
また沈黙。
私は数秒待った。
「……私?」
「そうだ」
あまりに真面目な顔で言うので、冗談なのか判断できなかった。
「相沢君、普通じゃない?」
「高梨の机に手をついて話していた」
「話す時それくらいするでしょう」
「顔も近かった」
「教室うるさかったから」
「飲み物まで渡していた」
「ノートのお礼だって聞いてたでしょう?」
「聞いていた」
「じゃあ何が問題なの?」
篠宮君は答えない。
眉間に少し皺が寄っている。
本人自身が困っているみたいだった。
「わからない」
「え?」
「何が問題なのか、自分でもよくわからない。ただ、見ていて気分がよくなかった」
思ってもいなかった答えだった。
私はストローを口へ運びかけたまま止まってしまった。
「それって……嫉妬じゃないの?」
言った瞬間、彼がこちらを向いた。
「嫉妬?」
「いや、知らないけど。普通、好きな人が別の異性と仲良くしてて嫌な気持ちになるのを嫉妬って――」
そこまで言って、自分で何を口走っているのか気づいた。
好きな人。
私が。
篠宮君の。
違う。
それではまるで。
「いや、今のなし! 別に私が篠宮君に好かれてるって言いたいわけじゃなくて、一般論として!」
慌てれば慌てるほど泥沼だった。
篠宮君は黙って私を見ている。
「何」
「高梨」
「何よ」
「俺は高梨が好きなのか?」
「知らないよ!」
思わず叫んだ。
近くで昼食を食べていた美咲がこちらを向き、にやっと笑ったので、私はますます顔が熱くなった。
「なんで本人に聞くの! 自分の気持ちでしょう!」
「そうだが、今までこういう感情になったことがない」
「私だって知らないよ!」
「では嫉妬ではない」
「どうしてそうなるの?」
「好きかどうかわからないなら、嫉妬とも断定できない」
「理屈っぽいなあ!」
私はいちごミルクを勢いよく飲んだ。
甘い。
いつもなら好きな味なのに、今は妙に甘すぎる。
「とにかく、相沢君はただのクラスメイトだし、ノート貸しただけだから」
自分でもなぜ説明しているのかわからない。
でも言ってしまった。
「そうか」
「うん」
「ならいい」
その一言で篠宮君の眉間の皺が消えた。
私はじっと見る。
「……やっぱり嫉妬じゃない?」
「違う」
「今、すごく安心した顔したけど」
「していない」
「してる」
「していない」
「してるって」
「高梨は人の顔を見すぎだ」
「隣だから嫌でも見えるの!」
口では言い合っているのに、胸の奥だけが妙に落ち着かなかった。
篠宮君が私を好き。
そんなわけない。
転校してきてまだ数日。
私だって彼のことをほとんど知らない。
ただ、変な人だと思っていて、放っておけなくて、少し話しやすくなって、時々びっくりするくらい優しいところがあって。
それだけだ。
それなのに。
――俺は高梨が好きなのか?
あの声が、何度も頭の中で繰り返された。
勘弁してほしい。
人間というのは、面倒だ。
午後の授業が始まってからも何となく集中できず、私は板書を写しながら何度も余計なことを考えた。
その日の放課後、さらに面倒なことが起きた。
「篠宮君、ちょっといい?」
帰り支度をしていた篠宮君へ声をかけたのは、桜井莉奈だった。
莉奈はクラスでもかなり目立つ女子で、髪もメイクもいつも綺麗に整えていて、SNSのフォロワーが何千人いるとか、別の学校の男子から告白されたとか、そういう話をよくしている。
別に嫌いではない。
少なくとも私は今まで直接嫌なことをされたことはなかったし、話せば普通に笑う。
ただ、人を見る時に「自分より上か下か」をすぐ判断するところがあって、そこだけ少し苦手だった。
「何?」
篠宮君が顔を上げる。
莉奈の後ろには女子が二人いて、何かを期待するように笑っていた。
「あのさ、ちょっと二人で話したいんだけど」
「ここでは駄目なのか?」
「えー、普通こういう時は察しない?」
「何を?」
女子たちが笑う。
その笑い方に、私は何となく嫌なものを感じた。
「いいから、少し来てよ。すぐ終わるから」
「俺はこれから――」
篠宮君が私を見る。
その視線に莉奈も気づいた。
「高梨と帰るの?」
「途中まで」
「あ、そうなんだ」
莉奈の声が少し変わった。
「じゃあ高梨、十分くらい借りてもいい?」
「私に聞かなくても、篠宮君本人に聞けば?」
「だって、ずっと一緒じゃん。彼女みたいだから」
「違うって」
反射的に答える。
その瞬間、なぜか篠宮君がこちらを見た。
少しだけ、傷ついたような顔に見えた。
いや、気のせいだ。
「じゃあ借りるね」
莉奈が笑って篠宮君の腕をつかもうとした時、彼は一歩だけ後ろへ下がった。
「触らなくても行く」
「あ、ごめん」
莉奈が笑う。
けれど後ろの女子たちは、またくすくす笑っていた。
何だろう。
胸の奥がざわつく。
「篠宮君」
呼び止めると、彼が振り返った。
「何だ?」
「……変なことされたら戻ってきてね」
自分でも馬鹿みたいなことを言ったと思う。
莉奈が笑った。
「何それ、高梨、保護者?」
「そういう意味じゃないけど」
「大丈夫だって。告白するだけだから」
あまりにもさらっと言われたので、私は聞き間違えたのかと思った。
篠宮君も固まった。
「……告白?」
「うん」
莉奈は楽しそうに笑う。
そして、
「篠宮君のこと、好きになっちゃった」
と言った。
教室に残っていた何人かがこちらを見る。
私の胸が、変な音を立てた。
篠宮君は何も言わない。
莉奈が一歩近づく。
「だから、付き合ってくれない?」
冗談なのか。
本気なのか。
私は莉奈の顔を見る。
笑っている。
後ろの女子二人も笑っている。
そして、そのうち一人がスマートフォンを制服のポケットの前で、こちらへ向けているのが見えた。
画面の上部に、小さな赤い丸。
録画。
その瞬間、昼休みに美咲が話していたことを思い出した。
最近、別のクラスで流行っているらしい。
罰ゲーム。
くじで負けた女子が、普段絶対に告白しないような男子へ告白して、相手がどんな反応をするか動画に撮る。
あとで友達同士で見て笑う。
まさか。
「莉奈」
私は立ち上がった。
「ちょっと待って」
「何?」
「その告白、本気?」
教室の空気が変わった。
莉奈の笑顔が少しだけ引きつる。
「なんで高梨にそんなこと聞かれなきゃいけないの?」
「本気ならごめん。でも、本気じゃないならやめたほうがいい」
「……どういう意味?」
「そこのスマホ、撮ってるよね?」
女子の顔が固まった。
慌ててスマートフォンを下げる。
それで十分だった。
「何それ」
私の声が自分でも驚くくらい低くなった。
莉奈が面倒そうにため息をつく。
「あー、もう。高梨ってこういうところ本当空気読まないよね」
「空気って何?」
「ただの遊びじゃん」
やっぱり。
胸の奥に何か熱いものが込み上げた。
「遊び?」
「そう。篠宮君だって別に本気にしないでしょ。ちょっと告白して、どんな反応するか見たかっただけ」
「それの何が面白いの?」
「え?」
「好きでもない人に好きって言って、その人が信じたら笑うんでしょう? 断られても笑うし、喜んでも笑うんでしょう? それ、何が面白いの?」
教室が静まり返る。
私だって、こんなふうに誰かへ強く言うのは得意じゃない。
できるなら揉めたくない。
莉奈だって明日から同じ教室にいる。
ここで怒ったら、たぶん面倒になる。
陰で何か言われるかもしれない。
それくらい、ちゃんとわかっている。
それでも。
篠宮君の顔を見た時、止まれなかった。
彼は無表情だった。
でも、私は知っている。
この人は無表情な時ほど、困っていることがある。
「別に誰も傷つかないじゃん」
莉奈が言った。
「篠宮君だって、本気で自分が告白されると思ってないでしょ?」
その言葉で、私は完全に腹が立った。
「それ、篠宮君が冴えないから?」
「……は?」
「眼鏡で、髪もぼさぼさで、目立たなくて、莉奈みたいな子に本気で告白されるわけないって、自分でそう思ってるからできるんでしょう?」
「高梨、何ムキになってるの?」
「ムキにもなるよ」
自分でも驚くくらい言葉が止まらなかった。
「好きって言葉って、言われた側がどう受け取るかまで自分で決められないでしょう。たとえ莉奈にとって一分で終わる遊びでも、言われた人が本気にしたら、その人には一分で終わらないかもしれないじゃん」
莉奈が黙る。
私は続けた。
「断られるかもしれないって怖い思いして、本当に好きな人へ告白する子だっているのに、その言葉を罰ゲームに使って、相手の反応まで撮って笑うなんて、私は嫌い」
言ってしまった。
最後まで。
教室の空気は最悪だった。
莉奈の顔も赤い。
怒っているのか、恥ずかしいのか、それはわからない。
「……もういい」
莉奈が吐き捨てるように言う。
「篠宮君、ごめんね。高梨が本気になっちゃったから、やめる」
「私のせいにしないでよ」
「じゃあ何? 篠宮君のため?」
「そうだよ」
答えた。
迷わなかった。
「篠宮君のため。悪い?」
その瞬間。
篠宮君が、息を止めたように見えた。
莉奈はしばらく私を睨んでいたけれど、やがて鞄を乱暴につかむと、
「行こ」
と言って女子二人を連れ、教室を出ていった。
ドアが閉まる。
静かだった。
静かすぎる。
私は急に恥ずかしくなった。
やってしまった。
明日絶対気まずい。
来週も来月も同じクラスなのに、何をしているんだ私は。
「……見世物じゃないから、みんなも帰って」
残っていたクラスメイトへ言うと、何人かが気まずそうに視線を逸らした。
それから数分で、教室には私と篠宮君だけが残った。
私は机へ座り直し、鞄へ教科書を詰めながら大きく息を吐いた。
「ごめん」
「なぜ謝る?」
「勝手に口出したから」
「俺は助かった」
「でも、篠宮君が自分で断る前に私が全部言っちゃったし」
「断り方がわからなかった」
私は手を止めた。
「本気だと思った?」
少し意地悪な質問だったかもしれない。
けれど、気になった。
篠宮君は少し考えたあと、首を横へ振った。
「わからなかった」
「そっか」
「俺には、誰かが本気で言っているのか、そうでないのかを判断するのが難しい」
声が静かだった。
「昔、それで間違えたことがあるから」
初めて聞く話だった。
私は顔を上げる。
「昔?」
「今は話せない」
またそれだ。
でも今度は追及しなかった。
篠宮君は窓の外を見ながら続けた。
「ただ、今日、高梨が怒った理由はわかった」
「ほんと?」
「ああ」
「篠宮君が冴えないから、そういうことしてもいいと思われてるのが嫌だった」
言いながら、また腹が立ってきた。
「別に見た目がどうだっていいじゃん。篠宮君、確かにちょっと地味だし、眼鏡も妙に分厚いし、髪もどう切ったらそうなるのって思うけど」
「……そこまで言う必要はあるか?」
「でも、それと笑いものにしていいかは別でしょう」
「高梨」
「何?」
「俺の見た目は、かなり酷いのか?」
「そこ気にする?」
「今かなり具体的に言われた」
「ごめんって。でも、嫌いじゃないよ」
言った。
言ってから。
時間が止まった。
篠宮君がこちらを見る。
私も自分が何を言ったのかわからなくなった。
「いや、今の『好き』とかそういう意味じゃなくて!」
「嫌いではない?」
「そう! 人として! 見た目も別に嫌じゃないってだけで!」
「そうか」
篠宮君が俯いた。
耳が赤い。
絶対赤い。
私の顔も熱かった。
「帰ろう!」
「まだ荷物が――」
「もう入ってる!」
「高梨、鞄開いてる」
「うるさい!」
完全に逃げだった。
教室を出て階段を降り、靴を履き替えて校門まで歩く間、二人ともいつもより口数が少なかった。
けれど校門を出たところで、篠宮君が突然私を呼んだ。
「高梨」
「何?」
「あの時」
「どの時?」
「桜井に言っただろう」
「何を?」
「篠宮君のため。悪い、って」
「……言ったね」
「あれは、本気か?」
「本気じゃなかったら、あんな大喧嘩しないよ」
「そうか」
また少し黙る。
「嬉しかった」
たった一言だった。
でも、その声があまりにも真っ直ぐで、私は返事に困った。
「別に、そんな大したことしてないよ」
「俺には大したことだった」
「……そっか」
「ありがとう」
「どういたしまして」
それ以上、何も言えなかった。
夕方の商店街へ向かう道を、二人で歩いた。
手もつながない。
好きだとも言わない。
そもそも私たちは、まだ友達と呼んでいいのかさえよくわからない。
それなのに、昨日までより何かが少しだけ変わったことだけはわかった。
そしてその夜。
九条家本邸の広すぎる自室で、蓮司は机に置いた一本の青いシャープペンシルを長いあいだ眺めていた。
「……俺のため」
何度目かわからないほど、その言葉を口にした。
昼間、別の男子が紗季へ飲み物を渡した時に感じた、胸の奥の不快感。
桜井莉奈が紗季を「彼女みたい」と言った時、一瞬だけ期待した自分。
紗季が即座に「違う」と否定した時の、説明できない落胆。
そして。
自分を笑いものにしようとした人間へ、紗季が本気で怒った。
彼女は九条蓮司を知らない。
九条グループの後継者だとも知らない。
この顔が偽物だということも知らない。
本来の顔を見れば、態度が変わる人間がいることも。
九条の名を知れば、急に笑顔になる人間がいることも。
彼は子供の頃から嫌というほど知っていた。
けれど、高梨紗季は違った。
何も知らない。
何も持っていないと思っている。
誰から見ても冴えない転校生だと思っている。
それなのに。
――篠宮君のため。悪い?
誰かが自分のために怒った記憶など、ほとんどなかった。
九条家の後継者を守る人間なら大勢いる。
護衛もいる。
秘書もいる。
弁護士もいる。
だが彼らが守るのは「九条蓮司」だった。
ただの「篠宮蓮」を守ろうとした人間は、彼女が初めてだった。
コンコン、と扉が鳴る。
「蓮司様」
「入っていい」
黒いスーツの秘書、黒崎が部屋へ入ってきた。
「明日のご予定について、少々確認が――」
そこで黒崎が止まった。
蓮司が机へ肘をつき、難しい顔で青いシャープペンシルを見ている。
「……何かございましたか?」
「黒崎」
「はい」
「嫉妬とは、どういう感情だ?」
長年九条家に仕えてきた男が、珍しく言葉を失った。
「……恐れながら、どのような経緯でその質問に至られたのでしょうか」
「高梨が、俺は嫉妬していると言った」
「高梨様が」
「別の男が高梨に飲み物を渡していたら不愉快だった。距離も近かった」
黒崎が眼鏡の位置を直す。
「それは、かなり典型的な――」
「だが俺は、高梨を好きかどうかわからない」
「蓮司様」
「何だ」
黒崎はしばらく主人の顔を見ていた。
そして長年仕えてきた者だけが許される程度の、ごく小さなため息をついた。
「僭越ながら申し上げますと、毎日学校へ行く時間が以前より四十分早くなり、休日に朝七時二十分から高梨様のご実家の洋菓子店を訪ね、同じ男性が高梨様へ飲み物を渡しただけで不機嫌になり、高梨様からいただいた三十三円程度のシャープペンシルを机の中央へ飾っている状況で、『好きかどうかわからない』という分析は、かなり無理があるかと存じます」
蓮司は黙った。
「……三十三円ではない」
「そこですか?」
「三本百円だから、正確には端数が出る」
「そこでもございません」
「では何だ」
黒崎は一瞬だけ天井を見た。
「蓮司様は、高梨様がお好きなのではございませんか」
部屋が静かになった。
蓮司は何も答えなかった。
心臓だけが妙にうるさい。
好き。
その言葉を当てはめた瞬間、今まで説明できなかったものが一つずつ繋がっていく。
朝、彼女を見ると安心する理由。
隣の席に別の男子が立つと不愉快になる理由。
洋菓子店へ行きたくなる理由。
彼女が笑うと、つられて笑いたくなる理由。
そして今日。
自分のために怒る彼女を見ながら、胸の奥が苦しいほど熱くなった理由。
「……そうなのか」
思わず口から漏れた。
黒崎が少しだけ微笑んだ。
「おそらくは」
「だが、まだ四日だ」
「恋愛感情に最低契約期間はございません」
「そんなことはわかっている」
「でしたら日数は問題ではないかと」
蓮司は椅子にもたれた。
大変なことになった。
そんな気がした。
「黒崎」
「はい」
「好きになったら、どうすればいい?」
また黒崎が黙った。
九条グループ次期後継者。
五か国語を自在に扱い、幼い頃から帝王学を学び、十七歳にして大学院レベルの経済学すら理解する少年。
その少年が今、人生でもっとも難しい問題に直面した顔で、自分を見ている。
黒崎は咳払いを一つすると、慎重に答えた。
「まずは、ご本人に好意を伝えるところからではございませんか」
「告白か?」
「いきなりでなくても結構かと存じます。もう少し親しくなられてからでも――」
「わかった」
蓮司が立ち上がる。
嫌な予感がして、黒崎は慌てた。
「蓮司様?」
「明日告白する」
「お待ちください」
「なぜだ?」
「私の申し上げ方が悪うございました。『まずは』というのは、明日の朝一番に実行しろという意味ではございません」
「ではいつだ?」
「それを少しずつ見極めるのが恋愛というものでございまして」
「非効率だな」
「恋愛を効率でお考えにならないほうがよろしいかと」
「好きだとわかったなら、伝えたほうが早いだろう」
「会社の買収交渉ではございませんので」
「では、どうすればいい」
黒崎は本気で頭を抱えそうになった。
「少なくとも、高梨様が蓮司様を恋愛対象としてどの程度意識しておられるのか、それとなく確認されることをお勧めいたします」
「どうやって?」
「例えば、好きな男性のタイプを伺うとか」
蓮司が考える。
「なるほど」
「ただし唐突に聞かれますと警戒されますので、自然な会話の流れで――」
「わかった」
今度こそ黒崎は不安になった。
そして、その不安は翌朝、見事に的中することになる。
ホームルーム開始十分前。
いつものように席へ着いた紗季へ、蓮は挨拶の直後、何の前置きもなく尋ねた。
「高梨」
「おはよう。何?」
「高梨は、どんな男が好きなんだ?」
紗季の手から、筆箱が落ちた。
教室の床へ、シャープペンシルと消しゴムが派手な音を立てて転がった。
「…………は?」
転校五日目。
九条蓮司の初恋は、どうやら本人が思っているよりずっと面倒な方向へ走り始めていた。
第75話 「売れる値段じゃなくて、私が売りたい値段を先に聞いて」御曹司にケーキ屋の新商品を相談したら、経営会議になりかけました 三者面談が一段落した翌週、私の進路について考えるきっかけは、学校ではなくソレイユの厨房から降ってきた。「紗季、これ食ってみろ」 土曜日の午前十時過ぎ、焼き上がったばかりの菓子を叔父さんが私の前へ差し出した。「何これ?」「見りゃわかるだろ」「見た目はタルトだけど、何の?」「だから食え」「説明する気ないじゃん」 私はエプロン姿のまま、小さく切られた試作品をフォークで一口食べた。 表面は薄くキャラメリゼされ、その下には少し酸味の残る林檎、さらにその下には香ばしいアーモンドクリームが入っている。「……美味しい」「それだけか」「急に商品会議みたいに言わないでよ」「試食頼んでんだから感想くらい言え」「林檎の酸味ちゃんと残ってる。あと、上が甘いから中まで甘すぎないの好き。タルト生地も前より薄い?」 叔父さんが少しだけ満足そうに頷く。「三ミリ薄くした」「三ミリでそんな変わる?」「変わるわ。菓子なめんな」「なめてないよ」 厨房の奥から母も出てきた。「どう?」「かなり好き」「あら、蓮君の口癖うつってる」「最近みんなそこ言う!」 母は笑いながら、もう一皿持ってくる。「こっちは?」「まだあるの?」「こっちはシナモン少し強め」 二種類を食べ比べる。「私は最初のほう」「理
第74話 「三年生から九条蓮司として通います」三者面談で御曹司が母親の前でも、自分の進路を自分の言葉で決めました 相沢君のサッカーの試合を見に行った翌週、教室の後ろに新しい予定表が貼り出された。 十一月三者面談。 生徒一人につき二十分。 三年次の類型選択と進路希望を中心に、本人、保護者、担任の三人で話をするらしい。「二十分って短くない?」 予定表を見ながら美咲が言うと、佐伯先生は教卓からこちらを見た。「予定通り二十分で終わる家庭ばかりなら、私も楽なんだけどな」「延びるんですか?」「去年、親子喧嘩が始まって五十分使った家がある」「怖っ」「だからお前ら、できれば家で話すことは家で話してから来てくれ。『お母さん、私その大学行かないって言ったでしょ』『そんな話聞いてません』を面談室で始めるな」 教室に笑いが起きた。「先生、経験積んでますね」 相沢君が言う。「お前らより長く高校生を見てるからな。それから篠宮」「はい」 後ろの席から返事がする。「お前は面談前に一度、放課後残れ」 教室の何人かが振り返った。 私は何となく理由を察した。「何で篠宮だけ?」 相沢君が素直に聞く。「事情がある」「進路?」「それも含めてだ」 佐伯先生はそれ以上説明しなかった。 文化祭の時に「篠宮蓮が本名ではない」ことまではクラス全員へ知られているので、誰かが特別扱いだと騒ぐこともなかった。 ただ、本人は少し硬い顔をしている。 ホームルームが終わると、いつものように私の席へ来た。「高梨
第73話 「高梨が相沢の名前を呼んで応援してる」御曹司、友達の試合で初めて彼女への嫉妬と友情を同時に抱えました 待ち受けの写真を相沢君に見られた事件から二日後、今度はその相沢君本人が、昼休みに妙に落ち着かない顔で私たちのところへやってきた。 普段ならパンを片手に「篠宮、数学のプリント見せて」とか、「高梨、今日店に余ったケーキない?」とか、本人なりには遠慮しているつもりなのだろうけれど、だいたい遠慮のないことを言ってくるのに、今日は私たちの机の前まで来てからも、なぜかすぐには口を開かない。「相沢君、どうしたの?」 私が聞くと、相沢君は後頭部を軽く掻いた。「今週の日曜、暇?」「日曜日?」「うん。午後なんだけど」 横にいた美咲がすぐ顔を上げる。「何、デートのお誘い?」「違うわ!」 相沢君の声が大きくなり、周囲の何人かがこちらを見る。「美咲、そういう冗談やめろ。篠宮がいるところで言うなよ」「何で篠宮君がいると駄目なの?」「何でって彼氏だろ」「俺は別に」 篠宮君が口を開く。「高梨が相沢と二人で出かけたいなら、まず理由を聞く」「篠宮君」 私は横を見る。「少しは嫉妬しないの?」「すると思う」「するんだ」「かなり」「そこは正直なんだね」「でも嫉妬したからって、行くなとは言わない」 相沢君が何とも言えない顔になった。「何で俺、誘いの内容言う前から二人の恋愛教育見せられてんの?」「相沢君が変な間を作るからでしょう」「俺のせい?」「で、何なの?」
第72話 「篠宮、その待ち受け高梨じゃん」御曹司が隠していた恋人写真を、クラスメイトに見られました 篠宮君と公園で撮った写真が彼のスマートフォンのホーム画面になってから、私は翌朝の教室へ入る前に一つだけ念を押していた。「学校では、机の上に画面を出したまま置かないでね」「うん」「誰かにスマホ貸す時も気をつけて」「貸さないと思う」「絶対じゃないでしょう。写真撮ってって頼まれることもあるし、調べ物で画面見せることもあるし」「その時は一回ホームへ戻らないようにする」「そこまで作戦立てなくてもいいけど、とにかく私が恥ずかしいから」「わかった」「本当に?」「かなり気をつける」 篠宮君は真面目に頷いた。 私はそれで安心した。 付き合っていること自体は、もうクラスのみんなが知っている。 だから、私たちが二人で出かけていることを知られたって、別に問題はない。 手をつないだことも、たぶん何人かは想像しているだろう。 それでも「恋人同士で撮った写真を彼氏が待ち受けにしている」となると、私の中では明らかに一段階恥ずかしさが上がる。 篠宮君本人は、その違いが最初よくわかっていなかった。「付き合ってるって知ってるなら、写真見られても同じじゃない?」「全然違うよ」「何が?」「説明しろって言われると難しいけど」「じゃあ、秘密?」「秘密というより、見せたくないもの」「同じじゃない?」「違う」「難しい」 昨日だけで、このやり取りを二回した。 最終的には、「高梨が見せたくないなら、俺も見せない」で納得して
第71話 「この写真、待ち受けにしてもいい?」冴えない転校生と初めて“恋人として”二人だけの写真を撮りました 九条家で夕食を食べた翌週の月曜日、教室へ入った私は、自分の席に鞄を置くより先に、こちらへ歩いてくる篠宮君へ気づいた。 席替えをしてから毎朝のように続いている光景なので、もう驚きもしない。「おはよう、高梨」「おはよう。今日は自分の席に一回座った?」「座った」「本当に?」「鞄置いた」「それを座ったとは言わないよ」「でも一回戻った」「戻ってないじゃん」 私が笑うと、篠宮君も少し笑った。 以前なら、こういうどうでもいい会話を朝からするなんて考えられなかった。 転校してきたばかりの頃は、声をかければ必要最低限の返事しかしなかった人なのに、今は「鞄を置いたから自分の席に戻ったことになるか」という、どうでもよすぎる主張までしてくる。「それで?」「何が?」「朝から何か言いたそうな顔してる」「わかる?」「最近かなり」 篠宮君は一度だけ周囲を見た。 まだ登校している生徒は半分くらいで、教室はそれなりに騒がしい。「昨日の写真」「写真?」「クラスで撮ったやつ」「ああ」 正式なクラス写真とは別に、莉奈がスマートフォンで撮ってくれた集合写真だ。 私と篠宮君が偶然隣に並び、相沢君が前で半分変な顔をしている、かなり自然な一枚。「どうしたの?」「昨日、家で見てた」「うん」「それで」 篠宮君が少し言いにくそうにする。
第70話 「今度は面接じゃなくて、夕飯を食べに来ないか」御曹司の父に二度目の招待をされました 三年次の類型選択について話した翌日の放課後、私は自分の机で鞄へ教科書を詰めながら、教室の後ろから近づいてくる足音に気づいていた。 席替えをしてからというもの、この足音にもだいぶ慣れた。「高梨」「今日は何?」「その聞き方、俺が毎日何か持ってくるみたい」「だいたい持ってくるでしょう。相談とか確認とかお願いとか」「今日は相談」「ほら」 私が笑うと、篠宮君も少し笑った。 ただ、いつもの軽い顔ではない。「何かあった?」「父上から」「隆臣さん?」 思わず声を落とす。 教室にはまだ何人か残っている。「うん。高梨を、また家に招きたいって」 手が止まった。「……また?」「嫌なら断っていい」「そこ最初に言うようになったね」「かなり大事だから」「それで、今度は何?」 前回、九条家へ正式に招かれた時はかなり緊張した。 隆臣さんから「息子を変えた人間を直接知りたい」と言われ、私は未来の嫁候補として評価されるつもりはないと条件をつけたうえで九条家へ行った。 三十三円ほどのシャープペンシルの話までした。 今思い返しても、あれは高校生の彼氏の家へ遊びに行ったというより、ほとんど面談だったと思う。「また質問されるの?」「違う」「家族会議?」「それも違う」「じゃあ何?」 篠宮君が少し言いにくそうにした。